キッス(KISS)は、1973年1月にアメリカで結成されたロックバンド。白塗りの化粧と奇抜な衣装でストレートなロックンロール、ハードロックを演奏する。巨大なロゴを中心にした大規模なステージセットで、当初より炎やパイロテクニクスを多用している。彼らのファンは、キッスアーミー(KISSARMY)と呼ばれる。
キャッチフレーズは、「You Wanted the Best!? You Got the Best! The Hottest Band in the World, KISS!!(最高を求めていただろう!? お前は手に入れた! 世界一熱いバンド、キッス!!)」であり、1975年のライヴから現在にかけて、オープニングアナウンスとして使用されている。
シングル、アルバム総売り上げは1億1000万枚にのぼる。
KISS / キッスのオリジナル・メンバー
ポール・スタンレー(Paul Stanley) – リズムギター(&リード)、リード&バッキングボーカル
ジーン・シモンズ(Gene Simmons) – ベース、リード&バッキングボーカル
エース・フレーリー(Ace Frehley) – リードギター(&リズム)、バッキング&リードボーカル
ピーター・クリス(Peter Criss) – ドラムス、バッキング&リードボーカル
KISS / キッスの活躍
ウィキッド・レスターをやめ、新しいバンドでよりストレートなハードロックへの路線変更を決意したシモンズとスタンレーは自らバンドを脱退、ローリング・ストーン誌に告知を出していたドラマーのピーター・クリスに連絡し、クリスが加入。しばらく3人でひたすら練習していたが、この頃から他のバンドとの差別化を図るために顔にメイクをしてみたりするようになる。リードギタリストとしてエース・フレーリーが加入。1973年にスタンレーの発案によりバンド名をキッス(KISS)に改名した。
1974年、アルバム『キッス・ファースト 地獄からの使者(Kiss)』でレコードデビュー。強烈なインパクトを与えるメンバー写真のジャケットこそ注目を受けたが、当初の人気は奮わなかった。キッスとして初のツアーを開始し、初めていくつかのTVに出演、あるライヴ番組ではシモンズの火吹きの他に、クリスはドラムセットを破壊・投げ落とし、スタンレーは現在も行われているギターを地面に叩き付け破壊する強烈なパフォーマンスを披露した。しかし同年発表された2作目のアルバム『地獄のさけび(Hotter Than Hell)』も、鳴かず飛ばずの結果だった。
1975年発売のアルバム『地獄への接吻(Dressed to Kill)』発表に合わせて大型ツアーであるDRESSED TO KILL TOURを行う。デトロイトのラジオ放送局は、アルバム収録の「激しい愛を(C’mon And Love Me)」をシングルカットされていないにもかかわらず連日かけまくり当地での人気が爆発する。
そしてデトロイト・コボホールにおけるコンサートを収録したライヴアルバム『地獄の狂獣 キッス・ライヴ(Alive!)』が、2枚組というハンディがありながら全米チャート9位に入るヒットを記録し、一躍人気バンドとなる。日本では、これまでのオリジナルアルバムを一斉発売し、主要マーケットの一つとなった。
翌年の1976年、ボブ・エズリンをプロデューサーに迎えて制作した『地獄の軍団(Destroyer)』をリリース。同アルバムからのシングル「ベス(Beth)」が大ヒット(全米7位)する。初の世界ツアーでもあるDESTROYER TOURは、前年のツアーをも凌駕する観客動員数を記録した。
同年、アルバム『地獄のロックファイアー(Rock and Roll Over)』発売。同アルバムからのシングル「ハード・ラック・ウーマン(Hard Luck Woman)」がヒットする。かつて、ボブ・シーガーの前座を担当していたキッスが立場を逆転し、ボブ・シーガーがキッスの前座をするという現象まで発生した。
同年、アルバム『ラヴ・ガン(Love Gun)』、『アライヴII(Alive II)』(1977年のライヴと5曲のスタジオ新録曲を収録)発売。『ラヴ・ガン』は予約で100万枚を突破し、オリジナルメンバーによる作品歴代最大の売上を記録する。『アライヴ2』からのシングルカットは、フレーリーが歌う「ロケット・ライド(Rocket Ride)」がヒット。この頃になるとキッスは全米を代表するバンドとなり、彼らの血液を赤インクに混ぜたものを使用したコミックまで発行された。
日本においては1970年代後半を代表するバンドとしてエアロスミス、クイーンと共に「ミュージック・ライフ」誌などで特集が組まれ、大人気であったが、このころからバンド内部の衝突も起こりはじめた。
バンドのフロントマンであり「デトロイト・ロック・シティ」「ラヴ・ガン」など数々の代表曲を作り歌うポール・スタンレー、火吹きや吐血などの視覚効果で世間の認知度が一番高かったもう一人のフロントマン-ジーン・シモンズ、「ベス」や「ハード・ラック・ウーマン」といった大ヒット曲を歌ったピーター・クリス(black diamondもヒットといえばヒットである。)、独特のギタープレイと雰囲気で人気を集めたエース・フレーリーの4人とも、自分こそがバンドを成功へ導いたと主張し合っていたという(それでもシモンズ&スタンレー、クリス&フレーリーのグループに別れるのが常だった)。
1978年9月、各メンバーのソロアルバムが同時リリース。フレーリーのソロアルバムに収録された「ニューヨーク・グルーヴ(NEW YORK GROOVE)」(ラス・バラードの曲のカヴァー)がヒット。ソロ・アルバムで自信をつけたフレーリーは、さらにグループからの独立を志向し始める。
同年、リミックスを施した初のベストアルバムである、『ダブル・プラチナム(Double Platinum)』発売。(Wikipedia)